見逃しの美学

 見逃して欲しい事は日常にいくらでもあるのですが・・・。なかなかそう言う訳にはいかないものです。ではなくて、今回は見逃したが為に怒られる話。

 やるべき事を「見逃した」故のミス。本来は反省すべきなのですが、今日の内容の「見逃し」については、周りから怒られる、注意されるのに、本人が一番腑に落ちない話です。

 

 「見逃し三振」

 

 ボール!!と僕の脳みそが判断したのに、審判のおいちゃんの右手が挙がってハイあんた三振ね。

 「ちと待ってくれよ・・・」ったって判定は変わらない。

 

 バット引きずりベンチに帰ってくりゃ、

 コーチのお出迎え「見逃しすんな!振ってこい!」

 

 「絶対にボールです・・・」なんて言えません。

 

 

 しかしですね。この「見逃しすんな!振ってこい!」の言葉に、僕はどーしても昔から違和感を覚えてならないのです。

 野球をやっていると、自然と自分のストライクゾーンの形が出来上がって、100キロを超える球がストライクなのかボールなのかを瞬時に判断します。そんな忙しい判断を迫られているのに、その球は曲がったり落ちたりと変化までしてくれる。そいつを直径数センチの棒に当てて飛ばせって訳で、実際言葉にするととんでもない事をやっているんですよね。

 審判の方にももちろん、ご自身のストライクゾーンの形があって、結構個人差もあります。その審判の方のゾーンと、自分のゾーンとがリンクしなければ、当然バッターは「見逃しの三振」を喰らってしまう訳です。

 

 しかしながら、自分の脳が「ボール」って瞬間に判断してしまった以上、もう振れない訳で・・・「見逃しすんな!振ってこい!」と言われても・・・。

 じゃぁ振りますって次の打席にボール気味の球を打って凡打してしまうんですなぁ。

 

 ノーアタック ノーチャンス なんですが・・・。

 

 確かにバットを振らなければ試合は始まりません。じゃぁ振ればいいんですねって打てない球に無理に手を出して凡打でもそれは良いのかって事でもありません。

 それにむしろ、プロ野球選手の方が「見逃し三振」が多い様な気もしてます。

 

 

 プロ野球を観ていると、コースが甘くても平然と見逃している選手がいます。その後の解説者のコメントは「振って欲しいですね」よりも「裏をかかれましたね」とか、「狙い球が来ませんでしたね」ってなります。

 ストレート待ちで変化球が来たらその都度対応ではなく、プロの選手は球種やコースを完全に絞って狙っているケースもかなり多いです。

 

 

 学生の野球を観ていると、初球はとりあえず甘くても何となく直球見逃して1ストライク。次変化球見逃して2ストライク。バットを振らずに追い込まれて最後はボール球に手を出してあえなく凡退。このパターンが実に多いです。

 

 「直球も変化球も見逃して結局、何待ってたんだよ・・・」

 

  初球は理由もなく見逃して、次は変化球だから見逃して、最後は見逃すといけないからボール球に手を出す。

 確かに「見逃し三振」は振っていない=勝負していない風にみえますが、追い込まれるまで振らずに最後にボール球手を出すパターンこそ、なかなか考えものではないでしょうか?

 

 だったら、最初から待つ球種を絞り込んで、そいつが来たら初球でもなんでも打つ!でも最後まで来なかったらゴメン!見逃しっ!!の割り切りがあった方が、勝負感全開じゃないですか(笑)

 落合選手がど真ん中ストレートを見逃し、半笑いでスタスタとベンチに帰る姿はある意味敗れ去った武士の様な清々しさでした。

 

 思うに大切なのは「見逃さない様に振る」事ではなく、

「自分の意思として狙いを持って打席に立ったかのか?」じゃないかなと思うのです。

 

 サインが出そうな場面で初球から簡単に打ってみたり、若いカウントで全然思いもしない球種の球につられて手を出してしまったり。

 

 「おめぇ・・・何にも考えてねぇじゃねぇか」

 と言いたくなる打席こそ、たとえ振っていようが情けない。

 

 バッティングなんて、当ってからボールがどこへ行くかなんて打った方もわからないもので、結果なんてそれこそ「結果的」にそこに飛んで行っただけの話なんだけど、野球を勉強し、選手が自分で考える力を持てれば、前もって防げる凡打もたくさんある気がします。

 

 場面によってはそんな事も言っていられない時もあるだろの声は十分承知してはおりますが、指導する側、観る側は安易に「見逃すな!」と言うのではなく、「自分の決めた球だけを狙え!それが来なかったらしょうがない^^;」っくらいの気持ちを持った方が良い気がしますがいかがでしょうか。

 

 ~自分の意思を貫いた打席は三振でも美しい~