言い方は雑っぽいけど、成績が出てケガをしなければどんな構え方(フォーム)でも良い。そうボクは思う。
全員が全員、教科書通りの形である必要もない。一人一人の身体条件、思考回路は違うから、教科書の形=やりやすい。にはならない。
まして、指導者の考えでチーム全員強制的にフォームを統一させるなんて論外だ。(実際に行われていた話を聞いた)指導者の役割はチーム全体を1つのあるべき方向に導く場合と、個人個人をそれぞれのあるべき方向に導くのと2種類があると思うけど、フォームを強制的に全員統一させるなんてのは、個人への指導を省略させた怠慢だと感じた。こんなんでスポーツやって楽しい訳がない。
物事の上達は「パクリ」にある。いかに上手な人の技術をパクるか。要はモノマネである。
ボクは現役時代あらゆるプロ野球選手のバッティングフォームのモノマネを取り入れ、実際に取り入れてきた。よく他人のモノマネをやって褒められる。
これは高校時代から社会人時代まで変わらず、毎年のようにフォームを変えた。と言っても、ここがボクの適当なところで、フォームを変える理由は「特に無い」のである。ただ、この選手のフォームでやってみたい。ただそれだけ。楽しい。
帝国通信時代の2年目(2002年)の導入した横浜の谷繁捕手(現中日)のバッティングフォームは大失敗であった。春先からしっくりこないのは分かっていたので、徐々に変更を加えて夏にはロバート・ローズ(横浜→ロッテ)になっていた。もうむちゃくちゃである。
その後はさすがに自分と同じ左打者が良いと石井琢朗選手(横浜→広島)で落ち着いた。
もっと遡ると、高校時代は背番号7だったので、吉村選手(元巨人)その後は落合選手(説明不要の3冠王)高校球児が落合選手の打ち方とはもはや救いようのない舐めた取り組みとしか言いようがない。書いていても恥ずかしくなる。
考えてみれば、ボクは最終的には石井選手や落合選手の様に、タイミングを取るのにバットを利用するバッティングフォームで知らず知らずのうちに落ち着いていた。
バットをゆーらゆらしておいてのパチン。バットを揺らすバッターは基本的には足を上げない。だからボク個人は、バットを固定して足を上げるフォームだと成績を残せない。
「あぁ、ボクはバットでタイミングを取れば良いんだぁ・・・」
それに気づいたのは、引退後の2010年、たまたま帝国通信のOB戦で川崎に行った草野球の1打席目だった。何気なくバットを揺らしながら振ったタイミングがハマり2塁打が出た時だった。
「あ、これだ」
初めての感覚だった。
今まで何やっていたんだろう。と思った。
結局、ボクはモノマネが重要と言いながら、本当にモノマネをすることで満足し、自分のバッティングの理論を全く持っていなかった。
自分のフォームはこうすることでこういう利点がある。自分はこうしたいからこの形を取り入れていると言う文章を全く持たずに、やってみたいモノマネをして遊んでいただけだった訳である。
それが分かった時は現役も引退し、自分が他人を「観る」この仕事に就けたからである。そうでなければ一生気づかなかったかもしれない。
「がむしゃらに頑張れ」とよく聞くけど、それはあくまで精神的な話であって、頭の中は常に「自分の中の正解」と「正解だと言える根拠」を求め続けていなければならない。「とにかくがむしゃらに1000回素振りしました」では意味がないのだ。
成功している人は、己の行動に常に根拠を持ち実践し結果を残す。ただしその根拠にも決して満足せず新たな根拠を探している。
今の学生たちに、そこを求めて出来ない事は絶対にない。ただ気づいていないだけだと思う、指導されたことを健気にひたすら続ける事。それは悪い事ではないけどベストではない。指導者の力のみでベストを導き出す事は絶対に出来ない。なぜならそれは教える内容が指導者にとってのベストであって、学生個人のべストと当てはまるとは限らないから。
そもそも「指導」の本質とは、技術や精神論を伝える事ではなく、学生が力を最大限発揮出来るために必要な「自分の正解とその根拠」を見つけ出す為の案内役ではないだろうか。
いかに上手な人の技術をパクるかではなく、
いかに自分に合った技術を持つ人のスタイルを見つけ出しそれをどうパクるか。
「自分で考えろ」「自分で探せ」
まずは、まずはここから。